2009年7月13日月曜日

☆アイヌ差別☆


☆アイヌ差別☆



アイヌとはアイヌ語で「人・男・父」の意味であり、日本列島北部、かつては主に北海道中心に、サハリン(樺太)・千島(クリール)列島・東北地方にも居住し、独自の言語と文化をもつ先住民族で、集落はコタンと呼ばれ、狩猟・漁労・採集を基本とする生活を営み、自らの居住する領域を陸と海を含めてモシリと呼んだ。



幕藩体制下での松前藩を中心とした支配と搾取(収奪)にあい、その後の明治政府の同化政策(ある特定の少数者の文化が別の多数の異質文化に包摂されることを同化といい、それが、法や慣習あるいは行政措置を通して、つまり、政策としてなんらかの強制〔抑圧ないし懐柔〕を伴ってなされる場合、同化政策という)の下で、伝来の生活形態、言語など固有の慣習・伝統文化は根底的に破壊され、人口も激減、現在は日本国内に大部分が居住し、北海道に約2万4,000人、関東に約3,000人を数える(日本全体では少なくとも3万人以上が生活していると推定されている。また、ロシアのサハリン州に自らがアイヌとして民族名の登録をする者がごくわずかながら存在する)。



このアイヌに対して、被差別部落の人々と同様の深刻な差別が行われてきた。否、「法の下の平等」を宣言した日本国憲法のもとでも、なお存在し続けているのである。現代日本人権問題の一つである。



さて、1899(明治32)年明治政府は、日本人(和人)の収奪によって貧困状態に追いやられたアイヌの救済と保護を名目として1戸あたり1万5,000坪以内の土地の無償下付(かふ=官庁から民間に金や物をさげわたすこと。ただし相続以外の譲渡や質権・抵当権などの設定を禁止)とアイヌ小学校の設立を主な内容する法律を制定するが、その名称は、なんと「北海道旧土人保護法」であった。法律に名称に「旧土人」という蔑称(べっしょう)が使われたのである。そしてそれは、1997(平成9)年に同法が撤廃されるまで続いた(「土人」とは、原住民などを軽侮〔けいぶ=相手を軽くみてあなどること〕していった言葉)。



同法撤廃の契機は、1986(昭和61)年に当時の中曽根康弘総理大臣が、「日本は単一民族国家」と発言してアイヌ民族や良識ある世論反発をかったことによる。激しい批判に遭遇した中曽根内閣は同法の見直しを約束、1989(昭和64)年に検討委員会を設けられたが、同法が差別政策であったとして撤廃されるまで、しかし8年もかかったのである。ここにも差別の深刻さが浮き彫りになっている。

 

そして同法撤廃運動を長年続けていた、アイヌ民族の最大組織である北海ウタリ協会(約1万6、000人で、『ウタリ』とはアイヌ語で『同胞』の意)が、北海道道議会や北海道知事とともに国に要請していた、「アイヌ民族を日本の先住民族であると認め、そのうえで、①差別の廃絶、②図会での民族議席の確保、③公教育へのアイヌ語学習の導入、④漁業権の優先付与、⑤アイヌ民族が自主運営する自立化基金の設立、⑥アイヌ民族政策を審議する機関の設置」などを内容とする「アイヌ新法」をベースにした「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」が1997(平成9)年5月に制定され、同年7月1日に施行された。



同法は、アイヌの人たちの永年の願いであった新たな法律で、日本の法体系上においてはじめて、アイヌの人たちを民族として認めるとともに、アイヌの人たちの民族としての誇りが尊重される社会の実現を図ること画期的な内容を持ったものであった。
 

なお、北海道旧土人保護法により、アイヌ民族の生活・教育支援を目的に交付した田畑や海産物干し場などの不動産、現金、公債証書(地域単位などで共同所有)をアイヌ民族には管理能力がないとして、道庁長官(現道知事)が共有財産を管理し、その借地料や利子を共有者に支給していた問題で、「アイヌ新法」が施行されたため、道は、同法の付則に基づき、返還作業を開始し、請求期間(1年)の後、請求者が共有者であるかどうかを審査した上で、99年4月に返還を通知した(現金のみ官報で公告)。その内訳は18件計約130万円と、共有財産に準じて管理されてきた「指定外財産」8件を加えた総額約146万円(指定時の元金総額約3万5,400円に金利分が加算された)であったが、返還過程で、財産の管理経過を記録した古い台帳の多くがなくなっていることが判明した(なお、土地に関して道側は、「すべて共有者に返還済み」としている)。



この返還をめぐって、北海道ウタリ協会札幌支部理事らが、アイヌ民族の土地が和人(日本人)に収奪された歴史に言及して、「共有財産も損害を受けた可能性が大きい。奪ったものは、きちんと返すべきだ」などと指摘、道側に手続きを白紙にするよう訴訟を提起した。この裁判で、原告側は「不明朗な管理により、返還対象になっていない共有財産がある。アイヌ民族が調査に参加し、公正な処理方法を考えるべきだ」と主張、これに対して、道側は「共有者に共有財産を返すという有利な行政処分。不利益は被らず、訴えの利益がない」と反論し、訴えの却下などを求めた。



札幌地裁は、原告側の共有財産を生み出した差別的な歴史の検証と反省を求めた先住民族の歴史問題を全く考慮せず、「返還決定を無効などにしても、原告が主張する返還対象外の財産を返すよう道知事に命令はできず、法律上の利益はない」として道側の主張を認め、共有者の訴えを却下した。また、道に対する請求通りに返還を認められなかった3人については、「審査委員会にはアイヌ民族も含まれていた」としたうえで、「居住歴など共有者としての資格が確認できない」と訴えを棄却した(02年3月7日)⇒原告控訴。






アイヌ年譜





7世紀以前 続縄文時代
658年 「日本書紀」に阿倍比羅夫「蝦夷」を討つとの記述
8-13世紀 擦文時代
1356年 『諏訪大明神絵詞』のなかでアイヌのことに言及
1443年 安東盛季が蝦夷島に逃げ渡り、この後、多数の和人が移住
1457年 コシャマインの戦い
1593年 豊臣秀吉、蠣崎慶広(後に松前と改姓)に朱印状を与え、蝦夷島の支配権を公認
1604年 松前慶広が徳川家康から「黒印状」によりアイヌとの交易権を認められる
1669年 シャクシャインの戦い
1720年頃 場所請負制が一般化する
1783年 仙台藩医工藤平助『赤蝦夷風説考』で、ロシア人の南下による蝦夷地防衛の必要性を訴える
1789年 クナシリ・メナシの戦い
1799年 幕府は東蝦夷地を直轄地とし、1807年には西蝦夷地も直轄に
1821年 幕府は蝦夷地を松前藩に戻す
1845年 松浦武四郎はこの年から6回にわたり蝦夷地を探検、虐げられたアイヌの生活を記録
1854年 日露和親条約締結(千島は得憮水道を境界とし、樺太は雑居の地とする)
1855年 箱館の開港に伴い。幕府は木古内、乙部以北を再び直轄とし、諸藩に警備を命ずる

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[明 治]
1869年(明2) 開拓使設置、蝦夷地を「北海道」と改める。場所請負人を廃止
1871年(明4) 戸籍法制定、アイヌを「平民」に編入。アイヌの開墾者に家屋・農具を与え、独自の風習を禁じ、日本語を強制
1872年(明5) 開拓使、北海道土地売貸規則・地所規則制定
1873年(明6) 開拓使、「賑恤規則」を制定
1875年(明8)  最初の屯田兵198戸が琴似(札幌市)に入地。樺太・千島交換条約により樺太から841人のアイヌを宗谷強制移住
1876年(明9) アイヌの仕掛け弓猟を禁止、代わりに猟銃を貨与
宗谷に移住したアイヌが石狩国対雁に再び強制移住
1877年(明10) 北海道地券発行条例制定(アイヌ住居地を官有地第三種に編入、一部に所有権付与)
1878年(明11)  開拓使、アイヌの呼称を「旧土人」と統一
1880年(明13) 平取村、有珠村(伊達市)にアイヌ子弟の学校設立
1883年(明16) 札幌県は十勝川上流の鮭漁を禁止
1884年(明17) 根室県、「救済方法」により管内アイヌの勧農事業着手
クリルアイヌ、占守島から色丹島に強制移住
札幌県、「救済方法」により管内アイヌの勧農事業に当たることを政府から許可(翌年から日高国沙流郡より実施)
1886年(明19) 「北海道庁」設置。北海道土地払下規則制定
1888年(明21) イギリス人宣教師ジョン・バチェラー、幌別村(登別市)にアイヌ児童教育施設「愛隣学校」設立
1889年(明22) アイヌの食料分として許されていた鹿猟を禁止
1893年(明26) 「北海道土人保護法案」、第5回帝国議会に提出、廃案
1894年(明27)  日清戦争
近文(旭川市)に、アイヌへの付与予定地を確保
1895年(明28) 「北海道土人保護法案」、第8回帝国議会に提出、廃案
1897年(明30) 北海道国有未開地処分法制定(150万坪を限度に開墾した土地は無償付与)
1899年(明32) 北海道旧土人保護法制定(1万5千坪以内の土地を無償付与、教育・共有財産管理などを規定)
近文アイヌ給与地問題(第1次)(以後、第七師団設置に伴う移転命令や反対運動などがおきる)
1901年(明34) 旧土人児童教育規程公布(和人児童と区別する簡易教育)
1902年(明35) 青森歩兵第五聯隊が八甲田山で遭難。落部村(八雲町)からのアイヌ捜索隊が活躍
1904年(明治37) 日露戦争
1906年(明治39) 対雁に強制移住させられたアイヌの多くがサハリン島に帰還
1910年(明43) 白瀬中尉ら南極探検隊が開南丸で出港。樺太アイヌの山辺安之助らが加わる

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[大 正]
1914年(大3) 第一次世界大戦
1916年(大5) 新冠村の80戸のアイヌが御料牧場の都合で強制移転
1919年(大8) 北海道旧土人保護法改正
1922年(大11) 旧土人児童教育規程廃止
「十勝旭明社」結成
1923年(大12) 「土人救療規程」、「土人保導委員設置規定」、「土人救護規程」制定

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[昭 和]
1930年(昭5) 「北海道アイヌ協会」結成
1931年(昭6) 「北海道アイヌ青年大会」、札幌で開催
1933年(昭8) 樺太島域のアイヌに日本国籍
1934年(昭9) 旭川市旧土人保護地処分法制定
1937年(昭12) 北海道旧土人保護法改正(付与地の譲渡規制緩和、住宅改良資金の給付制度等新設)
1945年(昭20) 第二次世界大戦、日本が無条件降伏
1946年(昭21) 「(社)北海道アイヌ協会」設立
北海道旧土人保護法改正
1947年(昭22) 第92回帝国議会衆議院請願委員会、「アイヌの保護事業に関する請願」参考送付
北海道旧土人保護法改正
1960年(昭35) 北海道アイヌ協会、再建総会開催
1961年(昭36) 「(社)北海道アイヌ協会」の名称を「(社)北海道ウタリ協会」に改称
1968年(昭43) 北海道旧土人保護法改正
1970年(昭45) 北海道旧土人保護法廃止案、全道市長会総会で採択
1973年(昭48) 「全国アイヌ語る会」札幌開催
1983年(昭58) 北海道ウタリ協会総会、『「北方領土」問題に関する基本方針』をまとめる
1984年(昭59) 北海道ウタリ協会総会、「アイヌ民族に関する法律案」採択
1988年(昭63) 「ウタリ問題懇話会」、 「北海道旧土人保護法」の廃止、「アイヌ新法(仮称)」制定の必要性を答申

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[平 成]
1991年(平3) 「北海道立ウタリ総合センター」設置
1994年(平6) アイヌ初の参議院議員萱野茂氏が当選
1997年(平9) 「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」制定
「北海道旧土人保護法」、「旭川市旧土人保護地処分法」廃止
「(財)アイヌ文化振興・研究推進機構」設立





2009年7月11日土曜日

アイヌとは何か

■アイヌ民族(ウイキペディア)

アイヌ民族( - みんぞく)は、日本とロシアにまたがる北方先住民族で、歴史的には本州東北部から北海道、千島列島、樺太(サハリン)を生活圏としていた。現代においては北海道を中心に関東ほか都市部で生活を営んでいる。ウタリはアイヌ語で同胞、仲間を意味し名称などで使用されるが、民族呼称ではない。

千島のアイヌは1875年の樺太千島交換条約後、そのほとんどが当地を領有した日本政府によって色丹島へ強制移住させられた。樺太アイヌ(エンチュー)は第二次世界大戦後にそのほとんどが当地を占領したソビエト連邦政府によって強制的に退去させられた。彼らの一部は日本(網走等)に移住したが、現在も少数が樺太に住む。

目次 [非表示]
1 歴史
2 文化
2.1 呼称
3 民族的出自
3.1 コーカソイド説
3.2 現在の学説
3.3 和人との混血
4 地理学
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク



歴史
詳細は「アイヌの歴史」を参照


文化
詳細は「アイヌ文化」を参照


呼称
アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。世界の民族集団でこのような視点から「人間」をとらえ、それが後に民族名称になっていることはめずらしいことではない。アイヌの社会では、アイヌという言葉は本当に行いの良い人にだけ使われた。丈夫な体を持ちながらも働かず、生活に困るような人物は、アイヌと言わずにウェンペ(悪いやつ)と言う。

これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、日本人(シサム・シャモ)とアイヌとの交易量が増えてきた17世紀末から18世紀初めにかけてだとされている。理由はアイヌが、「蝦夷(えぞ/えみし)」と呼ばれるのを嫌い、「アイノ(アイヌ)」と呼ぶように求めたとされているが、呼称そのものが普遍化したのは明治以降になってからのことである。


民族的出自

コーカソイド説
中世以降、日本人はアイヌを蝦夷、北海道を蝦夷地と称してきた。北方の民族からはクギなどと呼ばれてきた。朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷」、あるいは「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」をアイヌと捉える向きもあり、アイヌを東北地方以北の全土に住んでいた原日本人の一つとする説もある[誰?]。これまで起源論や日本人との関連については考古学・比較解剖人類学・文化人類学・医学・言語学などからアプローチされてきたが、近年DNA解析が進み、縄文人や渡来人とのDNA上での近遠関係が明らかになってきた。

しかし明治以来、アイヌは他のモンゴロイドに比べて、彫りが深い、体毛が濃い、四肢が発達しているなどの身体的特徴を根拠として、人種論的な観点からコーカソイドに近いという説が広く行き渡っていた時期があった。20世紀のアイヌ語研究者の代表とも言える金田一京助も、この説の影響を少なからず受けてアイヌ論を展開した。アイヌ=縄文人近似説が主流になるまで、アイヌ=ヨーロッパ人近似説には日本の学会において強い影響力があった[1]。

このような認識はまた、日本政府の様々な政策(同化政策、ロシア国境地帯からの強制移住など)にも色濃く反映された。


現在の学説
彼らの祖先は日本人の主体となっているいわゆる和人と同じように縄文人の一部を形成し、おおまかには続縄文文化、擦文時代を経てアイヌ文化の形成に至ったことが明らかになっている。しかし、その詳細な過程、縄文人集団から和人集団とアイヌ集団への分化過程については不明な点が多く、かろうじて各地の地名に残るアイヌ語の痕跡、文化(イタコなど)、言語の遺産(マタギ言葉、東北方言にアイヌ語由来の言葉が多い)などから、祖先または文化の母胎となった集団が東北地方にも住んでいた可能性が高いことが推定されている。特に擦文文化消滅後、文献に近世アイヌと確実に同定できる集団が出現するまでの経過は、考古学的遺物、文献記録ともに乏しい。

近年の遺伝学的研究では日本人(本州、北海道アイヌ、沖縄県の3地域を比較)の遺伝子はほぼ同じで、北アジアを起源に持つことが明らかにされ、従来定説化されてきた縄文人(アイヌ含)を南方系・弥生人を北方系とする埴原和郎の「二重構造説」は否定されている[2][3]。つまり北アジアのバイカル湖周辺を起源に持つ集団が複数回にわたって渡来することによる遺伝的な多重構造が存在すると考えられている。

江戸時代には松前藩がおもにアイヌの人々と交易を行っていた。当時、アイヌは和人のことを「シサム」「シャモ」と呼称していた。シサムは隣人という意味のアイヌ語で、シャモはその変化形の蔑称または「和人」のアイヌ読みともいわれる。


和人との混血
明治以降は和人との通婚も増え、アイヌの血を100%引いているわけではない人物も増えている。和人との通婚が増えている理由として、西浦宏巳が1980年代前半に二風谷のアイヌの青年に行った聞き取り調査では、和人によるアイヌ差別があまりにも激しいため、和人と結婚することによって子孫の「アイヌの血を薄め」ようと考えるアイヌが非常に多いことが指摘されている[4]。

しかしながらアイヌと和人の両方の血を引く人々の中にも、著名なエカシ(長老)の一人である浦川治造のように、アイヌ文化の保存と発展に尽力する者は少なくない。また、浦河町のエカシである細川一人は、和人の両親から生まれた人物であるが、幼少時に父親と死別し、その後14歳の時に母親がアイヌ族の男性と再婚したためにアイヌ文化を身につけたという珍しい存在である[5]。


地理学
北海道、樺太、千島列島、北東北に住んでいた。

1897年のロシアの国勢調査ではアイヌ語を母語とする1,446人がロシア領に居住していたことがわかっている[6]。

1945年にソビエト連邦は日本に宣戦布告し、南樺太と千島列島を占拠、居住していたアイヌは本国である日本に送還された。1989年の東京在住ウタリ実態調査報告書では東京周辺だけでも北海道在住アイヌの一割を超えると推測されている。

北海道においては、アイヌ居留地などは存在しないが、北海道の平取町二風谷に多数が居住するほか、白老、阿寒では観光名所としてコタンが存在。人口は23,000人ほどとなる。支庁別にみた場合胆振、日高支庁に多い。


脚注
^ 日独伊三国軍事同盟が締結された時も、この説はナチス・ドイツによって利用された。すなわち「アイヌ人はアーリア人であり、日本人はアイヌ人の子孫である。だから日本人はアーリア人である」というのである(ナチス人種学者のハンス・ギュンターの説(アーリアン学説))。もちろん「アイヌ=ヨーロッパ人近似」説の全盛期においても、この説は「アイヌ=縄文人近似」説とは矛盾するものであり、片方が正しければ片方が間違っているという性質のものであり、その両説を併せた「日本人=アーリア人」説は、荒唐無稽以外の何ものでもない。
^ 根井正利ペンシルベニア州立大学教授「現代人の起源」に関するシンポジウム(1993京都)にて日本人は約3万年前から北東アジアから渡来し、弥生時代以降の渡来人は現代日本人の遺伝子プールにはほんのわずかな影響しか与えていない、という研究結果を出している。
^ 松本 秀雄 『日本人は何処から来たか―血液型遺伝子から解く』
^ 西浦宏巳『アイヌ、いま-北国の先住者たち』新泉社、1984年
^ さとうち藍『アイヌ式エコロジー生活:治造エカシに学ぶ、自然の知恵』小学館、2008年、130ページ
^ Russian Empire Census of 1897: TotalsRussian Empire Census of 1897: Sakhalin (ロシア語)

参考文献
『アイヌ民族抵抗史』三一新書 1977年 ISBN 438072011X

関連項目
ウィキメディア・コモンズには、アイヌに関連するカテゴリがあります。アイヌ語
アイヌ音楽
イオマンテ
アイヌ語一覧
アイヌの一覧
二風谷ダム
アイヌ民族共有財産裁判
北海道ウタリ協会
蝦夷錦
蝦夷
アラハバキ
俘囚
サンカ
マタギ
日本の民族問題
先住民族
少数民族
AINU REBELS

外部リンク
アイヌ文化入門(アイヌ民族博物館)
社団法人 北海道ウタリ協会
財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構
ピヤラ アイヌ民族の今 - 北海道新聞
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C" より作成


アイヌ民族問題とは何か?

我々は、アイヌ民族に関する諸問題を資料、文献、データに基づいて研究するチームです。(江古田総研ーアイヌ問題研究プロジェクト・チーム)